彼の強さを頭で知る者達は、彼の強さを、その身を持って“思い知る”。


 光差す道よ、どうか彼を導いて。嘆願の帰途は死の岐路に、生の帰路を作り出す。


 強き者、優しい愛し子。君の帰りを待ち続ける。




【ただいま】





 ピッ、ピッ……規則的な電子音が鳴り続ける病室。一人用として設けられたその部屋の主は、ベッドの中で静かに眠っている。そしてその傍らに、その目覚めをひたすらに待つ男が一人。点滴の針と電子機器へと繋いでいるシールを動かさないようにして手を握り、男はそっと、眠ったままの少年の名をまた呼んだ。



「……龍亞」

 傍らにあった椅子に座って、もう、どの位経っただろうか。……窓の外に見えていた太陽はもうかなり傾いて、また赤い夕日へと変わり始めている。龍亞と同じ、この病院の入院着を身に纏ったその男……遊星はまた、あの日から今日までの日数をカウントする。



 龍亞が目覚めなくなってから一週間。龍亞が見つけられてから一週間。……自分が事故に遭って、あの謎の男に助けられてから、実に十日分の時間が悪戯に流れていったというのに……生死の境から自分を連れ帰るという普通の人間ならまず不可能な離れ業をやってのけたその男が、主と呼んだ彼は……龍亞は、未だに……。



「っ……」

 十日前の、最後に見た龍亞の顔が、頭の中に甦る。自分のヨーグルトを勝手に食べたと、憤慨していた彼。涙を浮かべた、つり上がった目。眉間に寄った皺。走っていく、後ろ姿……あぁ、どうして。どうしていつも見ていた彼の笑顔が、思い出せなくなっているのだろう。どうして思い出の中の彼が、どんどんセピア色に色褪せていくのだろう。龍亞は眠っているだけで、必ず目を覚ますのに。目を覚ますに決まっているのに。




『ごめんなさい、だそうですよ。もう会える事は無いから、私の口から伝えさせていただきます』


 あの時さよならという言葉と共に光の粒子と化して消えた彼の様に、思い出の記憶が、写真が燃やされるようにして意味を成さなくなっていく。胸と頭を占め付ける、龍亞を主と呼んでいた男の言葉と共に。どうして。どうして。どうして自分は、日に日にその言葉を、否定出来なくなってきている。……龍亞がもう目覚めないかもしれないという憶測を、受け入れようとしている。受け入れては駄目なのに、勝手に受け入れて、諦めようとしている。


 ……何を言っている。何でそんなことを考えている。動いている龍亞を最後に見た日から、もう十日。いいや、まだ、十日。感覚的にはもう一ヶ月はこうしている気がするけれど、まだ、十日しか経っていないのに。眠りに付いてからは一週間しか経っていないかもしれないのに。



 龍亞はちゃんと、生きてるのに。まだここに生きているのに。俺が諦めて、どうする。どうする。




「……その言葉は、俺が言うべき言葉だ」

 すまない、と。胸の奥底から湧き上がってくるその言葉を、遊星はまだ龍亞に伝えられていない。この状態で発見された龍亞に、伝えていないし口に出してもいない。その言葉を紡いだら最後、龍亞が完全に戻ってこられなくなる気がしたから。言ったら最後、彼がもう二度と目覚めないと、思い込んでしまう気がしたから。彼の事を、思い出の中の住人にしてしまいそうな気がしたから。だから遊星は、ぎゅっと龍亞の手を握り締めて話し掛け始める。



「龍亞……俺は今夜、退院だそうだ」

 自分の体を治したのが、あの男なのか赤き竜なのかは、遊星には分からない。けれど綺麗に治されたとはいえ事故に遭ったのも、二度とライディングデュエルが出来ないだろうと宣告されるほどの傷を負ったのもまた事実。だから今日まで遊星は精密検査を受け、そして漸く今夜退院する。ベッドも綺麗にして、荷物も纏めたから、後は服を着替えるだけ。十日間も入院してしまった事で家計に酷い打撃を与えてしまったが、クロウは笑って、まぁ何とかなるだろと言って、それ以上何も言う事はなかった。


「退院したら……退院しても、必ず毎日来るから。今よりいられる時間は減るだろうが、それでも、傍にいるから」

 龍亞の体に、外傷はない。ICUで詳しく調べてみたが、臓器などにも傷はなかった。脳が深い眠りに落ちてしまっている事以外は、至って健康体だった。だから発見されて二日程で、遊星にも入る事が可能な一般病棟へと移された。そしてそれから遊星は、寝る時以外ずっと龍亞の傍にいて、彼が目覚めるのを待ち続けている。



「天兵やボブ達が、お前がいないと調子が狂うと言っていた。もうすぐすれば、龍可と一緒にまた来てくれるだろう」

 彼等は毎日、放課後この病室にやってきてくれる。龍可も最初、アカデミアに行かず龍亞の傍に居たいと言っていたが、それは遊星が止めさせた。双子である彼女の声なら龍亞に届くかもしれないとは思ったが……もしかしたら精霊界に龍亞の魂が飛ばされたのかもしれないと言って二つの世界を行き来して探しながら、それでも龍亞は見つからずそして目覚めない事にどんどん心身を弱らせていく彼女を、少しでも天兵達と一緒にいる事で気分転換させて、回復させてやらないとと思った。精霊界の捜索も、レグルスやエンシェント・フェアリーに委ねさせ、クリボン達にはずっと龍可の傍にいてもらうことにした。彼女を一人にしてはいけないという精霊達との総意によるその決断を、間違っていたとは未だに思わない。


「アキが、花を持ってきてくれたんだ。だけど俺は殆ど部屋にいなかったから、この部屋に全部移させてもらった。クロウが、お前が目覚めたら、ブラックバードの後ろに乗せてやると言っていたよ。ジャックは、俺達が入院している間、カフェに脚を運ぶのを止めているそうだ。……お前が退院したらたくさん飲みそうで、今から出費が怖いところだ。ブルーノも、あの時のヨーグルトを買ってくれているらしい。WRGPに向けての調整を、一人でさせてしまっているからな。本当に……皆に、俺は、助けられてばかりで……、っ」



 優しく、優しく語りかけていた遊星の言葉が、途切れる。ぎゅうっと強く龍亞の手を握り締めるその腕は、カタカタと小さく震えている。





『遊星。龍亞、とっても、……とっても、強かったのね……うぅん、強いの。強いのよ……強すぎるわ……』


 頭の中で、眠ったままの龍亞の手を握って声を掛けていた龍可が、涙をボロボロと零しながら言った言葉が、痛い位に甦り、思い知らされる。

 かつて三歳の時、龍可は一ヶ月の間昏睡状態へと陥った。魂を精霊世界へと置いていた彼女を連れ戻したのは、一ヶ月間ずっと、呼びかけ続けていた龍亞の声だったという。あの声があったから、彼女はこちらへと戻って来れて……そして今、今度は龍亞があの時の自分と同じ状態になって……彼の強さを、痛感する。



『私は、たった三日で……会えなくなってからは六日で、こんなにもつらいのに……龍亞は……まだ三歳だった龍亞は、一ヶ月も……一ヶ月も、こうしてずっと……ずっと……!』

 周りの者達が諦めていく中で、ただ一人諦めずに声を掛け続けていた。時の流れという残酷に突きつけてくる絶望にも、屈する事無く。一生目を覚まさないかもしれないという憶測にも、囚われる事無く。必ず目を覚ますと、戻ってきてと、一途に呼びかけ続ける事の何と難しい事か、苦しい事か、心をズタズタに、引き裂かれる事か。そしてどれだけ……自分は兄に、愛されていたのか。求められていたのか。思い知る。思い知るのに。その兄は今、眠り続けるままで。同じ状況におかれたというのにどうして兄があの時、強くあり続けられたのか分からなくて。……龍亞の手を両手で掴んで、縋り付くように嘆願の名を呼びながら泣き続けていた龍可に、遊星は、……また、同じ言葉を繰り返す。



「俺達は、一人じゃない。一人で全部、抱え込めるものじゃない。お前の命は、そんな軽いものじゃない……だから、俺達は待ち続ける。呼びかけ続ける。お前と俺達の間にある絆が、お前を、連れ戻してくれると、信じ続ける。……信じて……信じて、いるっ」


 あの時、龍可に向けて言った言葉は、途中から龍亞に向けた言葉となって、静かに背中まで近づいてきている絶望を、無我夢中に払い除ける。一人でなんて出来ない。心の中にある筈の光が陰っていくのを消えないようにするだけで精一杯な自分達には、時間という現実(リアル)が、こんなにも重く冷たく心に圧し掛かる。仲間がいるから、絶望しないでいられる。一人でなんて出来ない。一人だったらきっと、きっと当の昔に辛抱の糸は擦り切れて、千切れてしまっていたと言い切れる。

 それが、当たり、前だろう? 一人でなんて……一人でこれに耐えるなんて……どうして、出来る。どうして今よりもずっと幼かった龍亞はそれが出来た。遊星にだって、分からない。それにもしかしたら今回は一ヶ月所か一生……ぁああ何を、何を考えている。そんなの一緒だ。幼かった龍亞だってそんなの分からなかった。一生起きないかもしれないなんて考えなかった? いいや考えたと思うべきだだって周りの大人がそう思ったなら勘付く筈だ言葉で聞かされる筈だ。だけどそれでも、それでも彼は諦めなかっただから龍可は帰ってきたんだ。だからこそ、分からないんだ。




 どうして、そんな事が出来るほど強い魂を持っているのに……なのに、どうして。どうして龍亞は、




「っ……っ、あの男の、言う、とおりだ……お前は、俺を、買い被り、過ぎている……俺は、俺の命は……お前を犠牲にしてまで、救われなくちゃならない命じゃないのに……龍亞、龍亞……どうして……どうして」


 人はどうして、祈る時両手で願うのだろう。それはきっと、見えないけれど必ず存在する、細い希望の糸を、絶対に離すまいとするからなのかもしれない。龍亞の手を包み込むように両手で握って、遊星は祈る。祈り続ける。



「龍亞……頼む。……お願いだ……龍亞……」

 どうか戻ってきて。どうか目を覚まして。また自分を見て。また、笑って。名前を呼んで。行かないで。逝かないで。生きて。生きて……その為に必要な代償があるなら、全部払うから。渡すから。何だって差し出してみせるから……一緒に、生きて。どうか俺に、謝らせて……!





 その、時だった。


 耳に響く一定の電子音が……龍亞の刻む心臓の音が、徐々に、ゆっくりになっていくことに気付いたのは。



「っ! ……ぁ」

 弾かれたように顔を上げた遊星が、龍亞のその大きな変化に気付いたのは。




「龍亞……?」

 龍亞は、泣いていた。声を上げることも、体を震わせる事も無く。ただその閉じられた瞼の奥から、止め処なく流れる涙を溢れさせ続けていた。まるで、遊星が苦しんでいるのを悲しむように。それは不可能なのだと、哀しむように。他の糸がすべて切れた操り人形を、たった一本だけ残った糸が必死に表現しているかのような、綺麗で、異常な涙。



 そしてその涙の勢いと反比例するように……心電図の音が、さっきよりも、弱く、弱く……!!!




「――ぁ、る、るあ、龍亞!! 龍亞っ!! しっかりしろ、目を覚ませ!! いくな……逝くな、るあっ!!」

 涙を流し続ける龍亞の顔が、白味を帯びて生気を失っていく。命の灯火が、消えようとしている。肉体と繋がっている魂の糸が、切れようとしている。椅子を倒して立ち上がった遊星は、子供が母親との別れを拒むように、もう何を言っているのかさえ分からない単語を喚きながら、龍亞の手を、離さないようにぎゅっと握って呼び続ける。





 逝くな逝くな逝くな、生きろ、生きろ生きて……生きたいと願って。俺も願うから。願い続けているから。逝きたいじゃなくて、生きたいと願って……もう一度、逢いたいと願って……!!



――――キィイイイイィイイイイイイィイイイイン





「っ!! 痣が……!? ぐ、うぁ、ぅうううっ!?」

 右腕に刻まれた、赤き竜の痣が光り始める。その輝きは強く。眩く。燃やされている様に熱く。痛みを伴うほど激しく。心臓が腕に移動したかと思えるほど、ハッキリとした鼓動を刻む。そして窓から、天井から床から飛んできた、集いし四つの赤き光が遊星の右腕に集まり……一瞬の、溢れんばかりの生命力に浮遊し溺れるような感覚の後、それが繋がっていた手を伝って、急速に龍亞の体へと注ぎ込まれていく。体中の力をすべて吸い取られるような脱力感に苛まれるが、それでも遊星は、龍亞の手を離さない。立っていられなくなった膝が力を失って床へ付き、ベッドの中に眠る龍亞に倒れ込みそうになり思わず顔脇に手を付いても、それでも片方だけになった手をけして離さない。



 そうしてその赤い光が龍亞の体へとすべて移り終えた時、痣を通じて、遊星の頭の中に誰かの声が聞こえてくる。



『よか……ねぇ。貴……が、なく…………ら、……困るんです……。……まだ、残る、き魂だ……くれ……すよ』

 自分へと話し掛けられているのではなく、別の誰かと喋っているのを拾ったような、どこか遠くから、聞こえる声。遊星にとっては聞き覚えのある、あの男の……ノーガルド、否、星影の声。ぴ、ぴ、と元のスピードに戻った電子音に遮られて、全部を聞き取る事は不可能。だがその時、今度は音の間隔が、段々と狭まっていく。





 そして。


 そして……





「ん……」
「!」
「んん……ぁ」


 溢れる涙を流し続けていた瞼が……開き。うっすらと、透明な塩水に濡れた、金色の瞳が、姿を現す。ぼんやりと、夜の闇を照らす行灯の様に、弱弱しい光を灯した、その瞳が、……その、瞳が、遊星を、遊星を、見つ、け、て……!!!





「ゆ、ぅ、せ?」
「っ……――〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!」



 声。声。龍亞の、声。名前、名前を、自分の、名前を、また、また、よ、ん――――!!!!!!





 そこから先は、思考すら言葉になる事はなく、遊星は龍亞を、強く、強く掻き抱いた。点滴のパックが揺れ、シールの接触が悪くなったのか心電図の音がおかしく不規則に鳴り響くけど……それを掻き消してしまうほどの、悲鳴とも、叫びともつかぬ遊星の声が、病室内に響き渡る。その声を聞きつけ病室へと駆けつけた看護師が見たもの。眠り続ける龍亞へ覆い被さるようにして抱きしめ、何かを必死に言おうとして、嗚咽し言葉にならない声を呻き続ける遊星の背に……




背に、


伸びようとして、


届かなくて、


裾を、きゅっと、





きゅっと掴む……少年の手……!!!





「〜〜〜〜〜っ! ぃ、先生! 先生っ!!」

 その瞬間、看護師の女性はすべてを理解し、病室を飛び出した。



「先生、先生!! 龍亞君が、龍亞君が……目を覚ましました!!」


 心の底から喜びを溢れ出すような声で、福音を、吉報を、一刻も早く医師へと届ける為に。






 そうして、その看護師が医師を連れてやってくるまで。

 痣が疼き、その光が病院へと飛んでいった事で仲間達が駆けつけてくるまで。




「龍亞、龍亞、るあっ、るあ……!」
「ゆ、せ……ごめ、ね。ごめ、んな、さぃ」
「謝るな……すまない、すまない。龍亞、すまない……っ」
「ごめ、ね、ごめん、ね……あぃ、た、かった」
「あぁ……ああ……俺も……おれも、ずっと……!!」


 遊星と龍亞はお互いをけして離さないようにしがみ付くように抱きしめあって、震える声でずっと、お互いに謝り続け、再び逢えた喜びを、噛み締めあうのであった。




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