【こんにちは】






 そこは、暗い暗い闇の中。上も下も、右も左も、前も後ろも分からない黒一面の世界。その世界の中で、遊星は襲いくる亡者から逃げ続けていた。



「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
 追いかけてくる亡者の足は遅かった。が、いくら走ろうとも振り切ることが出来ず、遊星は走り続けていた。



「っあ、ぐ……! うぁあああああっ!!」

 走り続ける最中、遊星は突如転んだ。そして振り返り悲鳴を上げる。足元から現れた亡者の手に、足を掴まれていた。そして起き上がろうとした遊星の足元がぐにゃりと柔らかくなり、追いついた亡者や新たに現れた亡者によって、押し付けられ引っ張られ、沼に嵌るようにずぶずぶと闇の中へと沈んでいく。助けを求めるように虚空へと伸ばした彼の手が、空しく宙を切る。




 が、その時。

「おやおや。予想以上に早いお迎えですねぇ」


 闇の中で何か眩い光が走り、亡者達に沈められていた遊星の体を引っ張り上げた。そしてそのまま、遊星を奪い返そうとする亡者を殲滅する。真っ暗闇の中で突如眩い光を見た事で、遊星はちかちかする目を守るように閉じる。瞼の裏側に浮かぶ、赤い一線。その赤い光が収まる前に、閉じた視界の先から呆れたような男の声が聞こえてくる。



「生ける者の放つエナジーは死者にとっては喉から手が出るほど欲しいものとは聞きますが……少々早すぎる。そしてお迎えが多すぎるのではありませんか? 貴方は死者に相当好かれる真似をしたのか、それとも嫌われ、恨み憎まれる真似をしたのか。まぁ何にせよ、間に合った事は吉報ですね。ここから先の世界には、私も足を踏み入れるのは一筋縄では行きませんからねぇ」
「っ、っ……? あんたは」


 流れるような皮肉を口にするその男を、遊星はやっと開けた視界に捕らえる。黒と白の正当なる執事服を身に纏う、すらりとした長身の青年。闇に溶けるような黒の上着を浮かび上がらせるように背を流れる、青緑色のゆるい三つ編み。前髪のサイドが重力に逆らうように後ろへと跳ねているその下の顔には、色が黄色ならマーカーと見間違えるであろう、青紫色の紋様が刻まれている。その紋様と同じ青紫の瞳が遊星を見下ろすと、突如遊星の右腕が、赤く輝く。それを見て、何故か男は深い溜息を吐いた。



「……あぁ、やっと反応しましたか。まったく、やはりシグナーと言えども端末は端末。すぐに替えが利く様に繋がりも薄いのですかねぇ」
「っ! お前、何故シグナ−の事を知っている!?」
「おや。命の恩人に向かって礼も無しに詰め寄ろうとは頂けませんね。誠意が感じられない。もう一回亡者と生死を懸けた戯れをしたいのですか?」
「っ……その、さっきは助けてくれて感謝する」
「んふふ。よろしい。素直さは美徳です」


 さて、と執事姿の男……ノーガルドは、ゆっくりと遊星に背を向け歩き出す。そして数歩歩いた所で振り返り、起き上がった遊星へと声を掛ける。



「さぁ帰りますよ不動遊星。我が主の願いですからね。しっかり連れ戻しますよ」
「っ? 主? いやそれより、どうしてあんたはここにいられる。その主によってここへ送り出されたのか」
「貴方の質問に答える義務はありません。加えて、貴方には拒否権も選択権もございません。すべては我が主の願いのままに。……まぁ、もっとも貴方が元の世界に戻っても、我が主に会える事はもう二度とないのですがね」
「っ、会える事が無いとはどういう事だ。その主というのは、俺の知っている人物なのか」
「それを私の口から申す事は出来かねます。まぁ目覚めた時、ゆっくりと仲間達の顔を見てあげる事です。そうすればすぐにでも分かりますよ」



 すたすたと歩き始めたノーガルドの後を、訝しみながらも遊星は続く。黒一面の世界の中で、まるでしっかりとした羅針盤を持っているかの様に歩き続けるノーガルドへ、遊星は反応を窺うようにして尋ねる。



「……あんた、名前は」
「私は主になった者にしか名前を教えぬ主義です。よって、貴方にお教えする名はございません」
「……、機嫌が、悪そうだな」
「ええ。貴方のせいでね」
「俺の?」
「まったくとんだ誤算でしたよ。貴方は芳しい香りを立て始める美味しそうな料理を作っておきながら、私の目の前でその料理に大量の消毒液を掛けたのです。台無しですよ色々と。食事を美味しくしてくれたと感謝した矢先、まさか同じ人物が命を懸けて私の食事の味を落とすなんて、想像もしていなかった。貴方を救う事が主の願いでなければ、端末であろうと少々痛い目に遭って頂く所です」
「…………その端末というのは、シグナ−の事か。あんたは、シグナーや赤き竜について何か知っているのか」
「ほぉう、この私の愚痴を華麗にスルーですか。想像以上の無謀者の様で」
「……」
「それについてお答えする義理も義務もございませんね。まぁあえて言うなら、シグナーの事には興味ございません故、よく知りはしませんよ」
「赤き竜については、よく知っているという事か。もしかしてあんたの言う主とは、赤きりゅ、っぐ!!」



 その時、遊星は一瞬にして足元へと叩きつけられた。視界に、先程見たのと同じ帯のような青緑色の光が映ったと思った、文字通り一瞬の間に、後頭部と背中を強く打たれた。魂だけの状態であるにも関わらず衝撃と痛みを覚えるのは、何故なのか。そのような事、今目の前に居るノーガルドにとっては、また愚問でしかないのだろう。顔を少々動かしただけで背を向けたままのその視線が蛆虫を見るような見下したものである事は、幸か不幸か、うつぶせになり咳を繰り返す遊星は気付く事が無かった。



「ごほ、がほげほっ!! な、にを……」
「あぁ、失礼。貴方があまりにも愚かで的外れな推測をのたまうので、つい。ですがふわふわのかき氷を崩さぬようスプーンを入れる様な、丁寧で慎重に吐き気を催す程甘い一撃で勘弁してあげたのです。これ以上その見当違いも甚だしい推測を垂れ流さないでくれれば嬉しいですねぇ。でなければ次はもう少し力を入れなければならなくなる。奇跡的に五体満足で残ったその魂を、成虫が羽化した蛹の様にされたくはないでしょう?」
「っ……」



「そう。貴方はただ黙っていればいいのです。しかしまぁ、主の願いに少々背く真似をしたのも事実。その詫びとして、おも……赤き竜について一つ教えて差し上げましょう」


 そう言って、ノーガルドは先程よりも少し早足になって歩き出す。頭と背中の痛みに耐えながら、立ち上がった遊星もまたその後を追いかける。




「ここは、生と死の境目であり、限りなく死に近い闇の世界。日本でいう所の三途の川、いや、そこまで手遅れではないですかね。まあ貴方は想像以上に早く亡者達の歓迎を受けていたようですが、まだ貴方は死んだ訳ではないのですよ」
「……! 俺は、まだ生きて」
「ええ。だから帰りますよと言ったのです。本来、シグナーである貴方を救うべきは、私ではなく赤き竜の仕事。ですが赤き竜も万能ではありません。日本の言葉でも言われているでしょう? 得手不得手、適材適所。死の世界はどちらかと言えば死者達の神である地縛神や冥界の王の領域。光をもって希望と成す赤き竜は、本来闇の世界が得意ではないのですよ」
「……俺を助けようとしているという事は、あんたは地縛神という訳でもなさそうだ」
「地縛神? それは私が思い付く中でも最高位に値する侮辱ですね。私をあの様な質よりも量だけを重視する、ただの燃費の悪い暴食家と同じにしないでいただきたい。まったく本当に、主の願いでなかったら、あなたのような無礼者の命など絶対に救いたくありませんよ」
「す、すまない。……?」



 遊星はその時、ほんのわずかに違和感を抱いた。それはノーガルドの言った言葉から生じた物だったのだが、残念ながらその正体に気付く前に、ノーガルド自身の言葉で上書きされる。



「私の主は、貴方の事をとても大事に思い、相当の買い被りをしているようだ。貴方の命は、けして失われてはならない価値があるものと考えている。……命の価値など、皆平等だというのに。貴方の命を飾る性格や実績という装飾を、命そのものの価値だと勘違いしているのです」


 ノーガルドは遊星に、その事を三匹のこぶたというお話で例えて話す。ぶたの三兄弟がそれぞれわらの家木の家煉瓦の家を建てるが、その内わらと木の家はオオカミに壊され煉瓦の家だけが壊されなかった。それだけ聞けば価値があったのは煉瓦の家だけとなるが、その煉瓦の家は作り上げるまでにかなりの時間を要してやっと完成したもの。皆が皆真似出来るものではない。そして重要なのは、その三つの家が建てられたのは同じ大地の上という事。


「ふふ。まぁ童話を持ち出した事で少々こじつけにはなっておりますがね。大地が命、建てられた三つの家がその人間達の肩書きや性格という装飾だと考えれば、分かりやすくはありませんか?」
「……何故、俺にこんな話を」


「生まれや地位、財産等も装飾です。その装飾の美醜は、まぁ今はいいでしょう。大事なのは価値は同じである命に、どのような装飾を施すか。そして死ぬまでに、どれだけの装飾を施せるか……ふふ。そんな難しそうな顔をしなくてもよろしいですよ。つまりは、その者が良くも悪くも、どれだけの魂に影響を与えられるかどうかという事なのです。そう考えれば、我が主にとって貴方は、煉瓦の家のように立派に見えたのかもしれません。そして生きてさえいれば、貴方ならもっともっと立派な装飾を施すだろうとお考えになられた。……だから主は決断なされた。それによって、どれだけの代償を支払う事になるか分かっても」
「っ? 待て、最後が聞き取れなかった。もう一度言ってくれないか」
「聞き取れなくて結構。ただの独り言です。……さてと。ここまでくれば、後はもう大丈夫ですかね」




 そう言ってノーガルドは足を止めたが、遊星にとっては光も何も見えない景色に変わりはない。もしかしてこの先は、一人で歩いていけという事なのだろうか。ノーガルドの前に出てその顔を窺えば、ふふ、と愉しそうに唇を笑みの形にする。




「貴方の体はもう既に蘇生済です。主の願いに沿い、前よりも丈夫な肉体に作り直しておきました。あとはそこに貴方の魂を戻せば、すぐにでも動けるようになります」
「……、感謝する」
「もう構いません。これで漸く、私も本当の食事にありつけるというものですから。有意義な人生をお過ごしください。貴方を救ってくれた主の事を、二度と忘れないようにしてね」
「あ、ああ。俺からも、本当にありがとうと伝えてくれ」
「……ああそうそう。主から貴方へ、言伝を預かっていたのでした」
「? 俺に?」



「ええ。ごめんなさい、だそうですよ。もう会える事は無いから、私の口から伝えさせていただきます」
「ごめんなさい……? ……、! 待て、もしやその主というのは、っ!! うぁあああああっ!?」


 とん、と。ノーガルドが遊星の体をそっと押す。それと同時に足を何かに払われた事で、バランスを崩した遊星は尻餅を……つく事なく、そのまま下へと落下していく。遊星には見えていなかっただけで、その先は深い崖となっていた。そしてその崖の下にこそ、元の、生者としての世界が待っている。





「さようなら不動遊星。もう出会うことは二度と無い、表が選んだ頭の端末」



 ノーガルドのその言葉を、遊星が聞き止めるのは無理だっただろう。まぁ聞かせる気も無いですからね、と肩をすくめたノーガルドもまた、元の世界へと……元の世界で待っている、“食事”の元へと戻るのであった。



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