多分、心配してくれたんだと思う。余計な心配掛けないようにって、思ってくれたんだと思う。
 確かにオレに出来ることって、すっごく少ないよ。きっと言ったりはしないだろうけど、年下だし、子供だし、余計に心配掛けたくなかったんだろうなって、分かるよ。

 ……だけど、だけどそれ以上にオレは……オレは……






家庭教師とハッピーラブレッスン☆





 その日は週二回目の授業の日。学校から帰った龍亞はわくわくしながらリュックの中に筆記用具を移していく。その様子をちらっと見た妹の龍可は、やれやれとため息をつく。


 龍亞が遊星の元に通い出した時こそあの龍亞が楽しく勉強しているという事実に少々驚きを感じたりもしたものの、二年も経てばそれは当り前の日常と化して、見飽きたものとなってくる。……や、これは喜ぶべき事実なのだ。彼女は楽しく勉強に取り組む龍亞の三倍以上の年月、つまらなそうに勉強に取り組む龍亞を見てきているのだから。



「(ほんと、凄いのね遊星先生って)」
 この兄に分かりやすく教えるだけではなく、確実に得点を上げたり上位をキープさせるとは、並大抵のことではない。きっと、双子である自分とはまた別に、相性が良かったのだろうと思えてならない。


「(波長でも合ってるのかな……性格が似てるとは、ちょっと考えにくいけど)」
 龍可が遊星と会った回数は、一回か二回。最初に遊星が龍亞の家庭教師として勉強の出来具合を知る為に訪れた時ぐらいのもの。そっとドアに聞き耳を立てたりお茶を持っていったりしている間に、彼女なりに遊星の性格を大幅に把握した。……とりあえず、悪い人ではないだろう。


「(でも龍亞、本当に遊星先生に懐いてるんだものね……)」
 少し、妬いちゃうな。背中に龍亞の楽しそうな声を聞きながら、龍可は数学の復習用ノートを開く。すると、



「……あ」
 丁度、ノートの残りが後半ページとなっていた。引き出しの中の予備ノートも、丁度切れてしまっている。


「……四時半、か」
 今日は両親も遅くなる。だから自分が晩御飯を作る必要があるから、丁度いいかもしれない。


「龍亞。ちょっとお買い物行ってくるから、留守番よろしくね」
「うん。行ってらっしゃーい」
 龍亞が返事をしたことを確認した後、財布とエコバックを手に家を出て近所のスーパーへと向かう。ノートと、その他諸々の食材を購入してエコバックに詰めていると、何やら隣から話し声が聞こえてくる。



「……で? 遊星の具合はどうなんだ?」
 エコバックに詰めていた彼女の手が、ぴた、と止まる。同名の可能性もあるとは思ったが、話をしている者達に気づかれないようにしながら彼等の話へ耳を傾ける。二人の男の内背の低い方が遊星のことを尋ねると、もう一人の男が肩をすくめて見せる。


「ありゃ駄目だな。完っ全にノックダウン。野菜持ってった時ベッドに沈んでた。鍵もかけ忘れてたし。まぁ今回はそれで見つけられてよかったけど」
「確か一昨日位からだったよな。具合悪くなってたの」
「あぁ、今朝なんて完璧風邪声だったぜ。とんぷくで最後の授業までよく頑張りましたって感じだけど、終わった後暫く意識飛んでたし」
「でもよ。確か昨日の午前、遊星授業休んでたよな。医者に行くってたけど、その薬も効かなかったのか?」
「んー、効いてはいるらしいけど相当性質悪いのにかかったらしくってさ。ろくに飯も食えねぇから体力取られすぎてんだよ」



「(……風邪? や、でもこの人達の言う遊星って人が、先生とは)」
 龍可はふりふりと首を振るが、次の男の言葉で疑問は確信へと変わる。



「ほら、あいつ家庭教師やってるっつってたじゃん。今日はその授業の日だから、何が何でも治すつもりだったらしいんだけど」
「(……え!)」
「そういやそんな事……でもそんな感じじゃきっと無理だろうな」
「ああ。せめて何か少しでも食べてりゃもっとマシになるんだろうけど……そういやなんか魘されながら、誰かの名前呼んでたぞ」
「名前? 俺等の?」
「や、知らない名前。るー……なんだったっけ」
「知るか」



 龍可はそこまで聞いた後、慌てたようにエコバックを掴んでスーパーを後にした。だからその後の男達の会話が、彼女の耳に届くことはなかった。



「まぁ、そういうことなら俺は行かない方が良さそうだな。変に気を遣わせるのもなんだし」
「ま、な。遊星きゅんの介護はこの俺に任せとけって☆」
「……電話したらちゃんと状態教えろよ。マシんなったと思ったら見舞いに行くからよ」
「心配性だなぁクロウは。ちゃんとあいつの額に冷凍食品置いとくからさ、気を揉むなって」
「遊星を冷凍食品の解凍に使うんじゃねーよ!」
「冗談だってー。保冷剤付きの濡らしたタオル置いとくから」


 背の低い男……クロウは、本当にこいつに任せてもいいのかと、とってもとっても不安になったということだ。





 一方、家に帰った龍可は泣きそうな顔で受話器を持っている龍亞と遭遇した。いや、泣きそうな顔ではなく、既に泣いている。話を聞くと仕事中の親に遊星から体調を崩したので今日は休ませてほしいという連絡が入ったということらしい。


「(やっぱり、あの人達の言ってた人は遊星先生だったんだ)」
「るかー……お、おれっ、ちょっと、先生のところに」
 一通り泣いた後今度は心配と焦りを浮かべた顔で家を飛び出そうとする龍亞を、龍可は必死に引き留める。


「だ、駄目よ。遊星先生すっごい性質悪い風邪ひいたって」
「こないだの授業のときは、そんなこと全然なかったぞ」
「その次の日からひいちゃったのよ! 今完全にダウンしてるって」
「……なんで龍可、そんなに詳しいの?」
「スーパーで偶然、遊星先生のこと知ってる人達が話してたのよ! そりゃ最初は違うかなって思ってたけど、なんか間違いなさそうだったし……魘されながら龍亞のこと呼んで」


 ハッ。そこまで言った後口を噤む。目の前の兄の表情が、驚きと、ますますの焦りで彩られたから。ふら、としながら玄関へと向かおうとする龍亞を、体にしがみつくようにして止める。


「い、行かなきゃ。ゆ、遊星先生が、待って」
「だから駄目よ。行って風邪を貰ったらどうするの!」
「大丈夫だよ! オレ一年前から風邪かかってないもん!」
「そ……それでも駄目っ! 行っても、逆に先生を困らせる、つらくするだけよ」
「どうして!?」
「龍亞に風邪を移したくないとか! 授業休ませちゃって心配掛けてるとか! 風邪が治せなかったとか! 龍亞に余計な心配掛けたくないとか! あの先生ならそれ位考えててもおかしくない!」


 龍可は遊星の性格を、ファーストコンタクトだけで把握し終わったわけじゃない。二年間、授業から帰ってくる度に嬉しそうに語ってくる龍亞のお話の中でも、把握と分析を進めていた。
 百聞は一見にしかず。きっと、実際に授業を受けている龍亞の認識と比べたら、かなり劣っているだろう。それでも分かるのだ。二年間聞き続けたから。


 龍可の言葉にうっとなる龍亞の抵抗が、弱まる。龍可が手を放しても、もう駆け出したりはしない。



「……冷たいこと言うけど、結果的に先生の風邪を良くするのは薬であって、龍亞じゃないわ」
「で、でもっ、それでもオレ……オレ……」

 龍亞だって、分かってる。龍可の言っていることは正しい。遊星はきっと、自分に来てほしくない。それ位、分かってる。一見どころか百見はしているのだ。そんなの、痛いくらいに理解してる。


 ……だけど……だけど、


「……遊星先生、オレのこと、呼んでたんだろ……? じゃあ、オレにだって、何か出来ること、ある筈だよ。指銜えて次の授業の日待ってるなんて嫌だよ。何かしたいんだよ! だって、だってオレは、遊星の……っ!」

 そこまで言った龍亞は、慌てて口を手で塞ぐ。恋人だから、って言葉を必死に抑える。幸いにも龍可は、龍亞が遊星先生のことを呼び捨てにしたことを気にしたのだろうと思ってくれた。そして、

「……また出た。龍亞の誰かの役に立ちたい病」
 双子だから余計に感じたのか。彼の、言葉に出来ない感情と気迫の凄まじさを感じて、ため息をついた。……本当に、遊星先生に妬きそうだ。こんなにも、自分の兄の心を捕えて離さなくするなんて。


「分かった。でもちょっと待って。すぐ支度するから」
「支度?」
「手ぶらで行っても、先生の風邪は治らないわよ」
 鍋掴み、二つ出しといて。そう言った後、龍可は台所へと向かうのであった。





「…………ん」
 ぼんやり、どろどろとしたまどろみの中、遊星の意識が現実へと浮かび上がる。うだるような熱さの中、額に当てられたタオルの冷たさが気持ちよい。


「っ、げほっ、ごほごほ……(あぁ、そういやあいつが来てたんだった)」
 自分の額に今夜使うつもりの薄切り冷凍豚を乗せて、俺に風邪うつされたら堪んないとマスクを装着させた“あいつ”……熱のせいだろうか。それともマスクで呼吸がしづらいからだろうか。思い出すと妙に苛立ちがよじ登ってくるような……。


「……(静か、だな)」
 まぁ、ご丁寧にも保冷剤付きのタオルを乗せてくれたのだ。細かいことは気にしないことにしよう。静かということは、もうあいつも帰ったに違いないから。


「……(そういえば、粥を作ったから食べておけと言っていたような)」
 だが、だるい。おそらく台所にあるであろう粥を取りに行く元気など、今の自分にはない。……時計を見ると、もう六時前。いつもなら晩御飯か龍亞の授業の支度を始める時間帯だが、今日は連絡を入れたからこのまま寝てもいいだろう。


「……る゛ぁ」
 口に出した声はガラガラで、無理だな、と遊星は目を閉じる。
 何としてでも風邪を治すつもりだった。彼に余計な心配を掛けたくなかった。薬が効いたのか、鼻づまりと頭痛は引っ込んだ……けど、結局治らなかった。きっと今頃、心配しているに違いない。……心配、してくれるだろうか。


「げほっ、がふっ」
 頭痛の代わりに、寝ているのに目眩がする。頭が働かないのにこんなに弱気になるのは、風邪のせいなのか。自信がないからなのか。それとも、両方か。


「る゛、ぁ」
 逢いたい。あの声を聞けば、元気になれる気がするのに。抱きしめることが出来たら、安心出来ると思うのに。
 逢いたくない。風邪をうつす訳にはいかない。これ以上心配をかけたくない。こんな弱った自分を、見せたくない。


「……は、ごほっ」
 情けない。逢いたいなんて。逢っても、この風邪がどうにかなるとは思えない。ましてや治るかもなんて、思ってしまうなんて。どうやら本当に風邪で弱気になってしまっているようだ。


「……げほ」
 もう、寝よう。食事も薬も摂れてないが、寝ていればこれ以上の体力の消費はしないだろう。汗で気持ち悪いが、寝れる筈だ。遊星はゆっくりと目を閉じる。次に目を覚ました時、少しはマシになっていることを願って。



 ……だが。ふいにその静寂は破られることとなる。


ピーンポーン
「お、おじゃまします。せんせ……! ゆ、遊星っ」

 部屋に響くインターフォンの音と、両手に鍋掴みを付けてお粥鍋を持って入って来た龍亞の声によって。



「! る゛っ」
 ぐげほっ、げほごほっごほがほがほっ! 先程まで思い描いていた者の来訪に驚いた遊星の肺と喉が悲鳴を上げる。彼の咳に龍亞は粥鍋をいつも使っている勉強机の上に置くと、すぐにベッドの方へと駆け寄る。

「せ、先生。か、風邪ってこんなに酷かったの? こないだの授業の時は元気だったのに」
 寝ている為背中を擦ることも出来ずとりあえず腕の辺りを擦る龍亞に、咳き終わった遊星は何も答えない。いや、声が出せないと言った方が、正しいかもしれない。

「せ、先生?」
「……ん、で……」
 小さくて聞こえない彼の声に、龍亞は耳を近付ける。


「な゛んで、来だ」
 信じられないというような、怒っているような、そっけないようなガラガラ声が、今度はちゃんと届いた。龍亞は最初こそ目を見開いたものの、すぐにぎゅっと閉じて、言葉を紡ぐ。

「……行かなきゃって、思ったから」
 当たり前だろ、とか。オレは恋人だもん、とか。他にもたくさん言葉はあったけど、この言葉が一番しっくり来る気がした。何か出来ることがある筈だと。何かしたいんだと。だから、行かなきゃと、思った。


 龍亞の言葉はとてもまっすぐに、遊星の心へ届き、響かせる。だが遊星は、その誠意を切り捨てようとする。

「……も゛う、(がえ)れ」
「やだ」
 その言葉は予想済みなのか、すぐに龍亞が首を振る。帰れ。やだ。帰れ。やだ。

「……迷惑だがら、ごほっ、早ぐ、帰れ゛っ」
「っ! ……ずぇったい、やだっ!」
 普段気が長いとかそんなの関係なくなるほど、病人の気はびっくりする位短い。四回目にして簡単に声が荒くなった遊星に、元々心の大きさは別として気が長いとは言えない龍亞も、もぉっ! と怒っている態度を取る。


「お゛前に甘える゛ことで風邪をう゛つすことになるなん゛てあってたまるかっ」
「遊星がオレに内緒で風邪つらいの我慢してるのが嫌なんだよっ」
「「……!?」」

 同時に喚いて同時に驚く。そのまま暫しの咳と無言……先に切り出したのは、龍亞の方。


「……せめて、さ。少しでもいいから、お粥、食べてよ。何か食べて、お薬飲むまで、オレ、ここにいるからね」
 やっぱり、そう思ってたんだね。その言葉を心の中にしまって、縋るような声で頼む。滅多に聞かない龍亞のそんな声には、

「……分がった」
 遊星も、頷かざるを得ない。そのままゆっくり、本当にゆっくりと上半身を起こし、またベッドに沈みそうになるのを龍亞が支える。

「(! 遊星、すっごい汗かいてる)」
 ぐっしょりとしたパジャマ。こんなに汗をかいたら寝ているのも気持ち悪かったのではないだろうか。そう考えながら龍亞は手を離し、勉強机に置いた鍋を取りに行く。


「……えーっと、机を上に置いた方がいいかな」
 レンゲは家から持ってきたから問題ないが、一人暮らしの遊星の家にはお盆がない。より布団に溢さないようにするには、この間みたいに机をベッドへと上げた方がいいとは思う。こく、と遊星が頷いたのを確認して、龍亞は慎重に、慎重に机をベッドの上へと載せる。

「お、お粥、冷めちゃったからチンするね」
 遊星が頷くのを見てレンジに鍋を入れる。その際、ポケットから一枚の紙を取り出して目を通す。全部読み終わった後、すぐにレンジのスイッチを切る。チン、て言うまで温めてはダメよと、龍可に言われていた為だ。


「は、はい先生。と、特製のお粥だよ! って、作ったのはオレじゃないんだけどね」
 机に持って行きかぽ、と蓋を開けると、中からほんのりと野菜の甘みが香る。すりおろした大根と人参と生姜に少量の味噌を溶かして刻んだネギを加えた龍可特製のお粥は、鍋にたっぷりではなく少なめに入っている。きっとそんなに多くは食べられないだろうという考えからだろう。さすがは龍亞の妹。細かい気配りはお手の物だ。

「え、えーっと。あ、お、お茶碗。お茶碗持ってくるね」
「る゛ぁ」
「な、何?」
「……水」
「み、みず? あ、水だね。分かったっ」
 何度か泊ったり一緒にご飯を食べたりしたから、少しは食器の場所を覚えている。いつも見ていた遊星の茶碗とコップ、後冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだして、ベッドへと戻る。

「い゛だぁぎ……」
「ど、どうぞ」
 のろのろと手を合わせ、たぶん、いただきますと言いたかったらしい遊星の言葉を理解した龍亞は、どうぞ、とすすめる。お茶碗にすくって置いた粥入りの蓮華を持ち、マスクを外そうとする。がその時、少々困ったように遊星は龍亞の方を見やる。マスクを外すことでより風邪がうつりやすくなるのを危惧しているのだろう。

「……わ゛る゛ぃ。ちょっと、あ゛っぢに」
「……うん。あ、じゃあ、……タオル、出してくるね」
 何かを思い出すように視線を動かした後、遊星の元を離れ洗面所の方へと向かう。その中でまた紙を……龍可が書いてくれた“やった方がいいメモ”を取り出して、やるべきことを確認する。その中には先生の体が濡れていたら絞ったタオルと着替えを用意するというのも、書いてあった。


「……ありがと。龍可」
 オレ一人じゃ、ここまで出来なかったよ。丁寧に紙を畳み直してポケットに入れると、バスタオルと普通のタオルを持って部屋へと戻る。着替えも出したいのだがタンスのどの棚を開ければいいのかが分からないので、後で出せばいい。


「先生、タオル持ってきたよ……えっと、もう、いいの?」
 部屋に戻ると、半分ほど残った粥を前にしてマスクをし直している遊星に、ひょっとして自分が戻って来たからじゃ、なんてことも考える。が、遊星が頷いたので、食欲もなくなってるんだと考えることにした。薬を飲むのも手伝って、一息付いた彼に龍亞はあのさ、とタオルを握る。


「あの、先生……汗、拭こうか?」
 すっごい、汗、かいてるし。気持ち悪くない? 少々……かなり、驚いている様子の遊星に、龍亞はほら、と必死に言葉を練って、紡ぐ。

「い、今、先生動くのもつらいでしょ? 汗びっしょりだと寝苦しいし、別に裸の先生はもう見て……る、し……」
 かぁあああ。必死になったことで自分の首を絞めるようなことを言っちゃった龍亞の顔が真っ赤になる。そんな彼の様子を見つめる遊星の顔が少し緩み、頼む、と短く呟く。


「あ、そ、そうだっ、汗拭くなら、き、着替えもいるよね!? さ、探していい!?」
「……」
 テンパリ気味の龍亞にマスクで分からない口元を緩ませる遊星は、右の方、と言って部屋の隅のクローゼットを指差す。普段着とジャージが連なる列から、パジャマらしき服を取り出した龍亞は、ほ、ほら、と遊星のボタンを外し始める。

「ず、ずっと汗かいたままだと、漬物になっちゃうんだからねっ!?」
「……ぶっ」
 きっと家で龍可辺りに言われていたのだろう。必死になっている龍亞の言葉が面白くて可愛くて、つい肩が震えてしまう。そんな遊星に笑うなっ、と恥ずかしそうにしながら、龍亞は彼の上服を剥ぎ取ってしまう。きっと、恥ずかしさから来る別の感情が勝っていたから、ここまで大胆に出来たんだと思う。


「……っ」
 上半身裸になった遊星。龍亞にとってそんな状態の彼を見るのは、“特別な授業”でしかなかったこと。経験がそれだけだから否が応にも思い出してしまって、真っ赤な顔のまま硬直してしまう。


「る゛あ」
「! あ、ご、ごめんっ」
 固まった龍亞にタオル、と促す遊星は、確信犯なのか天然なのか。真実は分からなくとも、確信犯なのではないかと疑うことは可能。天然だなんて考えたくない。そんな、先の思いやられる性質の悪い人であってほしくない。

 濡らして絞ったタオルで、背中から丁寧に拭いていく。下は、拭けない。まだ……いや。拭けるようになる日が、来る気がしない。だからちょっと時間は掛ったけど、シーツが濡れている場合はバスタオルを敷いておくといいわよ、という龍可のメモに従って、遊星が拭き終わるのを待ちながら食器を片づけたり鍋と机を下ろしたりバスタオルを敷いたりと動き回った。龍可という模範像は龍亞にいい影響を与えているようだ。

 だがすることがなくなって、遊星が下のパジャマを穿き変えようとした時、

「る゛ぁ」
「な、なに?」
「……あ゛の中、ダンスの、一番上がら」
 下着、取ってくれ。遊星の言葉に龍亞は……風邪をひいてもいないのに、くらくらと目眩を覚えたのだった。




 お粥、食べた。お薬、飲んだ。汗、拭いた。着替え、した。……これで、やれることはすべてやった。

「じゃあオレ、先生が寝たら、帰るね」
 起きてる時に、一人にさせない。これは龍可のメモに書かれていたことではなく、龍亞自身の経験から。小さい頃龍可が風邪をひいた時、眠るまで傍にいてと言われた……病気になった時一人は寂しいのだと学んだ、経験から。弱っている人間に効果抜群な事を知ってて行っているかは謎である。

「……る゛ぁ」
「何?」
「……」
 横になった遊星は、無言で彼に手を伸ばし、ゆっくりと頭を撫でる。優しい瞳は、彼の言いたいことを代弁するように龍亞を真っ直ぐ見つめている。

 ありがとう。ありがとう、ありがとう。来てくれて、ありがとう。……その優しい感謝の念は、龍亞を奮い立たせていた強張りを、簡単に溶かしてしまう。


「ねぇ……遊星?」
 ぽろ、と零れた、“恋人”としての呟き。それが分かったのか、遊星の手も動きを止める。

「オレ、ね。一人じゃ、何にも出来ないし。心配掛けたくないって、思われちゃっても仕方ないと思うんだ」
 実際、龍可のメモがなかったら、ただ来るだけ来て立ち往生していたのではないだろうか……否定しきれない、自分の、未熟さがある。

「オレは、まだまだ、遊星の支えになれないんだなって……それが、すっごく、嫌で」
 五年の年齢差は、想像以上に重たい。遊星は言わないだろうけど、年下で子供で、余計に心配掛けたくなかったんだろうなって、分かるよ。分かるから、つらい。


 でも……ううん。だから。


「だから……また頑張るね。遊星の支えに、少しでもなれるように、頑張るからね」
 だから、遊星も少しずつでいいから、オレに寄りかかって。オレを、必要として。……そうして貰えたら、すっごく、嬉しい。


 頑張るという龍亞の浮かべる満面の笑みは、遊星の瞳に眩しく焼きつく。なんて、なんて、なんて。こいつはこんなにも呆気なく、とんでもないことを言うのだろう。

「……っ」
「へ、ゆう、わぁ!?」
 頭に載せられていた手が肩に移動したと思ったら、そのまま病人とは思えない力で掴まれベッドへ……遊星の体の上へと引きずり込まれる。彼の肩と枕に頭を押し付けられる龍亞は、風邪にまいっているとは思えない……否、ひょっとしたら風邪に理性という名のリミッターが蝕まれ解除したのかもしれない……力で、強く抱きしめられる。回された腕も首筋も酷く熱くて、鼻腔に入り込んでくる汗の匂いに、不謹慎にもドキリとしてしまう。

「ゆ、ゆう、せ?」
「……っ、たら、……る、からな」
「へっ?」
 肩口で呟かれる声がよく聞き取れなくて、龍亞は聞き返してしまう。すると遊星の口が、首筋を辿る様にして耳へと近付き、


「治っだら、しごたま啼がせてやる」
「……っ!」
 こんな風邪で動けない時に煽りやがって。誘いやがって。風邪が治ったら貪り尽くす。絶対ヤる。……そんな激しすぎる本能が混ぜ込まれた言の葉に、龍亞の心臓が破裂しそうなほどバクバクと脈打つ。“遊星”の強い欲の熱に、……心なしか、体の奥がきゅん、と疼く。


 だが次の瞬間、抱きしめていた遊星の腕から力が抜け、弛緩する。戸惑うように顔を上げると……穏やかな寝息を立てている、遊星の寝顔があった。

「……〜っ、ずるいっ」
 何を言えばいいのかよく分からないまま、ずるい、と数回繰り返した後、龍亞は、遊星の顔を覗き込む。そして、


「……っ、」
 熱を取る様に、熱を与えるように……熱を、求めるように。
 マスクに隠された唇へ、自分のそれをぶちゅ、と重ねた。暫く硬直しているようにくっ付けた後、飛び退くように体ごと離れる。


「〜、ほ、んと、早く治れば、いいのにねっ」
 マスク越しって、変な感じっ! 唇に指を当ててぼやく龍亞の顔は、ちょっと涙で潤んだ、真っ赤色だった。




 そうして龍亞が帰って、二時間ほど経った頃。一人の男が遊星の部屋のドアを開けて入ってきた。


「……ゆ〜うせ〜いきゅ〜ん。どうだ〜調子は〜」
 小声ながらも底抜けに明るい声でベッドの遊星へと歩み寄る男は、ありゃ? と不思議そうな顔をする。まだ息は荒いものの穏やかな顔つきで眠る遊星の容体は、大分よくなったことが窺える、のだが。

「……お前、いつの間に着替えたんだ?」
 ていうかよく着替えられたな? あれしかもバスタオルまで敷いてない? こんな動き回って大丈夫な訳? 布団を捲って一回目に来た時との相違点をたくさん見つけた男は、そういやぁ、と台所の方へと足を運ぶ。

「ぁー! 遊星てめぇ俺の粥まったく食ってねぇじゃねぇかっ!」
 折角作ってやった特製粥をー! と終始小声で喚くその男は、ふとシンクの隣に置かれた水切りに目を見やる。そこには明らかに使用した後の、コップとお茶碗。指を当てるとわずかに残っているぬめりが乾いて張り付いた感触が、確かに遊星は食事をしたというのを教えてくれる。のだが男の粥にはまったく手を付けられた跡がない。

「……」
 男は無言のままもう一度遊星の元へと向かうと、枕の脇に置かれた紙袋から薬を取り出してみる。……一回分、確かに減っていた。

「……」
 男は薬を仕舞うと、遊星の見舞いに来そうなメンバーを振り返ってみる。……クロウは、今日まだバイトをしている筈だ。ジャックも鬼柳も、来たとしてもここまでの介抱は出来ないだろう。

「……これは」
 まさか。まさかまさか。浮かび上がる一つの選択肢に、男の眼が驚愕に見開かれ……口元が、面白い悪戯を思いついた子供のようにニンマリと笑みを形作る。


「遊星きゅんに……春? や、もう夏になってたりして?」
 やっべぇ。これはいいことを知っちゃったぞ〜? ニマニマと笑う男は遊星の風邪が治ったら是非問い詰めようとウキウキしながら、はたと自分がここに来た目的を思い出す。


「いけねいけね。忘れてた」
 そう言って男は遊星の額に乗せられているぬるくなったタオルを外すと、持ってきていた冷却シートをピタっと張り付ける。幾らなんでも、深夜にまでタオルを交換にはこれない為だ。

「……ま、今はとっとと治すこった」
 そして治ったら素直に白状しろよ。いや弄りに弄り回すには素直じゃない方がいいか? 男の楽しそうな囁きに、寝ている遊星の体がブル、と震え眉間にしわを作ったのだった。




 オレに出来る事って、すっごく少ないから。オレから先生に出来る事って、殆どないんじゃないかなって不安になる。
 けど、少しずつ、少しずつでもいいから。先生の、遊星のこと、支えてあげられる存在になりたい。弱っている時に、少しでも支えられるように、なりたい。隣にいたい。
 オレ、頑張るからね。少しでも、遊星に必要とされるように、頑張るから。……だから遊星も、もっともっと、


 オレを求めて。ね?


―END―
龍亞が遊星を介抱するには、龍可の見えないサポートがかなり必要というお話? 龍可は本当によく出来た妹だと思うんだ。
ちなみに遊星先生をきゅん付けで呼んでいるこの男はオリキャラです。シュウに続く二人目の男キャラ。そして(多分)最後のオリキャラ予定です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

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