まだ寒気の残っている、3月の終わりのこと。




「もうそろそろ、お花見の季節ですね」
「花見?」

 ばさ、と乾いたシーツとリネンを取りこんでいたユウセイは、楽しそうに服を取りこんでいるメイドへと視線を動かす。


「お花見。故郷でやったことありませんか? 親しい人達と、桜の木の下で食事をするのですが」
「桜の…………いや、やったことないな」
「……失礼ですが、桜がどんな木かは、ご存知ですよね」
「知っている。故郷にもあったよ。桃色の、綺麗な花の木だろ」


 ただ、食事をした事はないな。ユウセイの返答に、メイドはどうやらカルチャーショックを受けたらしく驚いた顔で見つめ返してくる。


「どうした?」
「あ、い、いえ。文字通りの花見しかしたことがないという方に、初めてお逢いしたものですから」
「そんなに珍しいのか?」
「わたしから見れば珍しいですね。そして勿体ないとも思います」

 花より団子、なんて諺がこの国にあるのかは知らないが、勿体ないと思う。純粋に桜を愛でるだけなんて……ユウセイが桜を愛でているのかは知らないが……勿体ないと思う。


「いつかお花見に行きたいですね」
「そうだな」

 花見か。少し寒い風が吹く空に、ユウセイはどんなものなのだろうと想いを馳せるのであった。




 その会話が、今回のお話のきっかけ。


 そして、朗らかな陽気に街が包まれた4月の中頃。



「ねぇユウセー、明日お花見やろ!」
「お花見、ですか?」

 お風呂上りの濡れた髪を拭いて差し上げながら、ユウセイはルアの言葉を繰り返す。


「そう。ユウセイ、お花見やったことないんでしょ? オレもやったことないから、一緒にやろうよ!」
「……確か、明日は教育係も来ませんでしたね」
「お花見するには絶好の日だって、ミールも言ってたよ!」

 後ね。お花見するには色々準備もいるって言ってた。ルアの言葉に、やはりメイドの入れ知恵だったというのを理解したユウセイは、左様ですか、と言いつつ脳内で嬉しそうな顔をしたメイドを浮かべる。いつか行きたいが、結構早くになったなぁと思った。


「ねぇユウセイ。いいでしょ、お花見しようよ」
「畏まりました」
「かしこまりましたじゃなくて、行きたいかどーかを聞いてるの。お花見行きたい?」
「ですが」
「ですがたかが使用人のオレが、なんて言ったら泣くよ」
「……俺も、楽しみです」
「じゃあ大丈夫だね!」

 先手を取られたことで少々苦い顔のユウセイに、“行きたい”ととれる言葉にて満面の笑顔を浮かべるルアは、


「ミールー! ユウセイ行きたいってー!」
「それでは準備しておきますねー」
「……!?」

 風呂場の外へと声を掛け、待機していたのだろうメイドを次の行動へと移させた。ユウセイが油断していたのもあるが、気配をまったく感じさせない彼女はメイドの鑑である。


「明日楽しみだね!」
「そ、そうですね」

 花見は食事をするものらしいから、コックに弁当の方を頼んだ方がいいだろう。机や椅子もいるのだろうか……いや、もしかしたらメイドがすでに手配を整えているかもしれない。


 暖かくなってきたとはいえまだ少々冷え込む夜に風邪をひかないよう、ユウセイは手早くルアの髪と体を拭きながら、明日への準備の為脳を巡らせるのであった。












 ユウセイ達を始めとするルアの住んでいる城は、街よりも少し高い場所に建てられている。城の裏側は山があるのみなのだが、そこに大きくて見事な桜の木が一本あるのだ。どうやらこの城の前の持ち主がいた時からあったのか城の裏側にはこの桜を観賞する為のデッキテラスが設けられており、春になれば花見を楽しんでいたことが窺える。

 城の裏側にある為、太陽の光は少々届きにくい。なので少し寒いし、暗い。だから陽光がしっかりと届く、午前11時半。


「わ、わー! すっげー!!」

 ここ数日の晴天にも恵まれ、見事に咲き誇った桜の木を前にしてはしゃぐルアと、お重とバスケットを持ってにこにこしているメイドと、やかんとか食器とかが入ったリュックと座布団を一枚抱えたユウセイの姿があった。


「……朝も思ったが、ここには場所取りなんていらないんじゃないか……?」
「場所取りは花見の大定番行事ですよ。朝早くからありがとうございました」

 大きく枝を広げる美しい桜を一番間近から見る事の出来る特等席には、朝早くからユウセイによって茣蓙が広げられ、しっかりと石で止められている。城下の者達の花見スポットはここよりは小さいもののたくさんの桜並木が連なる河原や同じくたくさんの桜が咲いている広い公園などになっているので、ここは城の者達だけが楽しむ穴場中の穴場。ユウセイが場所取りの必要性を感じなかったのも、この辺に理由がある。


「……久しぶりに見たが、こんなに綺麗な花だったのか」
「そうですね。わたしもじっくりと眺めるのは久しぶりかもしれません。ルア様この上には靴を脱いでお上がりくださいね」
「あ、うん!」
「王子。こちらに座布団が」
「え? 別にいらなくない?」
「ルア様は活発ですものね。ただ朝の冷えがまだ残っておりますので、お尻を冷やさないようお使いくださいな」
「……朝も思ったんだが、茣蓙じゃなくてシートの方が良かったんじゃ」
「茣蓙と座布団の方が、花見には風流でしょ?」

 それに、シートは桜にとって良くないんですよ。そう言って楽しそうに微笑みを浮かべるメイドを見て、ユウセイはだからあんなにうきうきしながら準備を進めていたのかと納得した。風流、というのが今まで花見をした事のないユウセイとルアにはいまいち理解出来なかったが、この茣蓙も座布団も、もっというとお弁当の入っているバスケットもお重もメイドが準備したものだから、そういうものなのかと理解することにした。というか、山に咲く桜の根元はデッキテラスに生えているわけではないので、やっぱりシートでもいいんだと思うのだが。風流と書くメイドのこだわりは、ユウセイには中々に理解が難しいものなのかもしれない。




 そして茣蓙に敷いた座布団にルアが座り、お楽しみのお弁当のターンとなる。ルアの前でしゃがんだメイドが、丁寧な手つきでバスケットを開けた。



「今日はわたしとユウセイ以外コックも含め全員半日休みですので、僭越ながらわたしとユウセイで作らせていただきました」
「わぁ……! これ、全部サンドイッチ!?」

 ハムとキュウリ、たっぷりの卵、微塵切りにした玉ねぎとシーチキンマヨネーズ、水気を切ったトマトとレタス、厚めのソースカツやポテトサラダ等の定番から、ルアが好きそうなハンバーガーや焼き肉パンにコロッケパン、大ぶりのソーセージが挟まったケチャップ味とカレー味のホットドックに、クラブハウスサンドといった本格なものや、ピーナッツバターやジャムを挟んだものまで。バスケットの中から出てくる様々なサンドイッチと、サイドメニューとしてたっぷりの唐揚げとフライドポテト、そしてコールスローサラダを見る度に、ルアの目がたくさんのおもちゃを見ている様にキラキラと輝いていく。


「こちらのサンドイッチとおかずは、ほぼユウセイが作りました」
「ほ、本当!? ユウセイすっごく料理上手なんだね!!」
「え、あ、いや、そのようなことは」
「またまたー照れなくってもいいじゃん!」

 言葉を濁すユウセイに謙遜していると思って少々茶化すルアに、ユウセイはありがとうございますと返すことにした。確かにサンドイッチとおかずを作ったのはユウセイで合っているが……大体の食材の下ごしらえはコックが前日にやっておいてくれていたし、その他の下ごしらえと準備はすべてメイドがやってくれていたので、彼がやった事は唐揚げとポテトを揚げたりコールスローサラダを作ったり材料をパンで挟んで切って、バスケットに詰めただけだったりする。
 だけ、と言う程ユウセイが行った仕事は少なくはないが……ほぼ作った、と言える程仕事を行ってもいないので、彼が言葉を濁したのは彼の性格を考えれば自然な流れだったともいえる。


「ルア様はこのコールスローサラダを美味しそうに召し上がっていただけるので、コックにレシピを聞いておきました」
「うん。オレあんまりサラダ好きじゃないけど、コックさんは美味しく作ってくれるから大好き!!」
「王子。お飲み物は、オレンジジュースでよろしかったでしょうか」
「うん! へへ。どれもすっごく美味しそうだね!!」
「ええそうですね。どれもユウセイがルア様の事を想いながら作ったものですから。コールスローも是非召し上がってみてくださいね」
「お、おい」
「もっちろん!! さ、早く食べ・・・って、あれ?」



 満面の笑みを浮かべながらいただきまーす!! と手を合わせる……前に、ルアはコップにオレンジジュースを入れた後は立ったままのユウセイと、お弁当を出す為しゃがんではいるものの茣蓙の中には入っていないメイドに、怪訝そうな顔を浮かべる。



「ねぇ。何で二人は入ってこないの?」
「わたしが入ってしまうとスカートで茣蓙の面積を大きく取ってしまうからです」
「俺は……その、立っていた方が、気が楽ですので」
「オレと座ると、疲れちゃう?」
「! いえ、そのようなことは」
「ねぇ。折角のお花見だよ? ユウセイもミールも、一緒に座って食べようよ!!」

 よく見れば、敷かれた茣蓙はルアとユウセイとメイドが横一列に座ったら足りなくなる位の広さしかない。いやそもそも王子であるルアと横一列で並ぶなどユウセイの頭の中にはないので座るなら彼の斜め後ろとかに……まぁ細かい事は置いておくとしても、彼等二人が一緒に座るとなるとやっぱりどうやっても足りない。最初から入るつもりはなかったのかと頬を膨らませるルアが、メイドとユウセイを軽く睨みながら強請る。


「ねぇ……いいでしょ?」
「しかし……」
「ねぇ……オレ、一人で座って食べるのやだよ」
「王子……」
「……狭くなりますが、よろしいのですか?」
「! お、おい」
「!! よ、よろしいよろしい!! その位我慢するもん。皆で一緒に食べた方がおいしいよ!! ユウセイもそう思うでしょ?」
「そ、それは……」
「……ユウセイは、一人で食べる方がいいの?」
「そうではなく、使用人の俺が」
「それ以上言ったら、泣くよ?」
「う゛っ」

 ルアに泣かれるのが一番つらいユウセイにとって、この制止の言葉は何よりも効果が発揮される。そんな二人を交互に見ていたメイドが、くすっと笑みを零した。


「ルア様。実はもう一つサイズの大きい茣蓙をお持ちしております。なのでルア様に我慢を強いることはありませんからご安心ください」
「本当!?」
「お、おい待てっ」
「んもぉーユウセイ!! 折角のお花見なのに、ノリが悪い!!」
「そうですよユウセイ。わたし達の主はルア様。そのルア様が一緒に座って食べようと仰っているのですから」
「それは……だが、」
「む゛ぅ〜強情だな……仕方ない」


 ユウセイ、“めーれい”!! 一緒に座って、お花見しよう!!


 ビッシィイ!! と指差して言い放ったルアの命令で、漸くユウセイも畏まりましたと素直に応じることになった。


「あんまり言いたくないんだよこれ」
「頑固な執事を持つと、大変ですわよね」
「何か言ったか」
「いいえ? あ、それいい石ですね」

 寂しそうに小さくぼやくルアに新たに取り出した茣蓙を敷きながら苦笑するメイドは、隅を押さえる為の石を持ってきたユウセイに何事も無かったような笑みを浮かべるのであった。





 そして漸くスタートしたお花見は、ルアの歓声から始まった。


「! おっいしい〜〜!!」

 サンドイッチを一口齧ってのこのリアクションと笑顔に、内心とってもドキドキしていたユウセイはあぁ凄く可愛い良かったと柔らかい笑みで安心した。


「ユウセイ、ユウセイこれすっごくおいしいよ!!」
「あ……その、お口にあって、良かったです」
「うん。わぁ次どれ食べよう。ってか、二人も食べなよ。一緒に食べよ!」
「で、では……これを」
「……へへっ。ね。ミールも食べよ?」
「わたしはこの紅茶を注いだら取らせていただきますね」
「分かったー」
「あの、俺は紅茶は」
「そちらのジュースをお飲みください」
「ユウセイ紅茶飲めないんだ。なんか意外かも」
「い、淹れる事は出来ます!!」
「美味しいの?」
「……味を見たことはありません」
「え? それってオレ飲んだことある?」
「まず無いと思います。紅茶はいつもコックかわたしが淹れたものしかお出ししたことはありませんから」
「ユウセイの淹れた紅茶って美味しいの? ミールは飲んだことある?」
「……うふふ。わたしの代わりは、まだまだですかね?」
「……それは、俺が下手じゃなく、あんたが上手すぎるんだ」
「それは嬉しいですね。はいルア様。ジュースと一緒に、紅茶もどうぞ」
「わーありがとうミール!! これなんて紅茶?」
「ニルギリのオリジナルブレンドです。熱いのでお気を付けください」

 口いっぱいにサンドイッチを頬張りながら慎重にカップを傾け、幸せそうな顔を浮かべるルアに、メイドもまた嬉しそうに微笑む。思っている事がすぐに表情に出るというのは、人の上に立つものとしては悪く取られる事が多い。けどルアの素直さは、美徳だ。だってこんなにも簡単に、ユウセイとメイド二人を、幸せにする事が出来るのだから。


「(わたしも相当かもしれないけど、それでもユウセイには負けますね)」

 好きなサンドイッチを次々取っていくルアの面倒を見ながら彼に気付かれない様さりげなく彼が好きなものを寄せていき、あまりルアが食べないサンドイッチばかりを積極的に食べていくユウセイを見て、零れてしまいそうになる笑みを紅茶と共に呑み込むのであった。



 サンドイッチを食べ終え食後の紅茶を飲むルアの世話をユウセイがしている横で、メイドがいそいそと食べ終わったゴミなどを袋へと入れていく。ふとその時、ルアがメイドのすぐ近くにある重箱に目をやる。最初はてっきり他にもおかずを入れているのかと思っていたが、思い返せばサンドイッチを食べている間あの重箱は開かなかった。


「ねぇミール。その重箱には、何が入ってるの?」
「こちらでございますか」
「うん。さっきから開けてないよね?」
「はい。ルア様がお腹いっぱいになられましたら、必要無いかと思いまして」
「え? これも食べ物? なになに? 気になるよ!」
「……ふふふ。では、開けさせていただきますね」

 ルアのキラキラとした興味の瞳に笑みを零すメイドが、一段だけの重箱をパカッと開ける。落とすなどして蓋が開かないようしっかりと止められていたのだろう。蓋を開けた瞬間、ルアとユウセイの鼻にふわりとどこか独特の甘い匂いが届けられた。


「ミール。これ、お菓子?」
「はい。メインのサンドイッチなどをユウセイにお願いし、わたしはこちらの方を作らせていただきました」
「見たことない菓子だな」
「わたしの国でよく頂いていたお菓子です。こちらから桜餅、三色団子、苺大福、どら焼きと言って、特に桜餅と三色団子はこの色から花見の時にはよく食す菓子です。三色団子以外は餡子が使われておりますが、ルア様は平気でしたよね」
「うん。うっわぁどれも美味しそう。ねぇねぇ食べていい?」
「勿論でございます。どうぞお召し上がりください」
「やったぁ!」

 いただきまーす! とルアはすぐ手前に置いてあるどら焼きを取って一口で食べる。彼とユウセイは知らない事だが、メイドはお重に入れる関係上、どら焼きを小さく一口サイズで作っていたようだ。


「ミール、ミールこれ美味しい!!」
「お口にあって良かったです」
「ユウセイこれ美味しいよ! ユウセイもほら、ボーっとしてないで食べてみなよ!!」
「ぁ、はい」

 ルアに促されるようにして、ユウセイは比較的小さそうなどら焼きを手に取り口に入れる。よく食べているケーキ等とは異なる生地の甘味が、餡子といい相乗効果を齎している。

「……美味しい」
「ふふ。お口にあって良かったです……あら?」
「どうした」

 湯を沸かしていたメイドが、ごそごそとリュックの中を探している。がどうやらお目当ての物が見当たらないのかあらあらと困った様に眉根を寄せた。


「すみません。このお菓子に合わせた茶葉を用意していたのですが、どうやら入れ忘れてきたみたいです」
「茶葉を? この紅茶じゃないのか」
「ええ。折角の花見ということでニルギリと一緒に取り寄せた特別な茶葉でして……申し訳ありませんが取ってきてもよろしいですか? ついでにポットも洗ってきます」
「うん平気だよ。行ってきなよ」
「ありがとうございます。すぐに戻りますね」

 と、やかんを乗せたコンロの火を弱めた後ポットとゴミ袋を持って足早に城へと戻っていった。デッキテラスで花見を行っている為、すぐにゴミを捨てに行けるのは利点である。走っていくメイドの後姿を見送った後、ユウセイは彼女が付けたまま置いていったやかんの様子を見る。自分達がお菓子を食べ始める前から付けていたから、もう少ししたら沸騰するだろう。



「ねぇねぇユウセイ」
 とそこで、苺大福を食べていたルアが自分を呼んでいる事に気づく。はい、と返すと、彼は四つん這いでユウセイの隣へと来ようとするので、慌ててユウセイの方から傍に寄った。


「王子。どうされましたか」
「あのね。ユウセイ、お花見楽しい?」
「は……」
「あ、あのさ。オレ王子じゃん。で、ユウセイもミールもオレの世話いっぱいしなくちゃでしょ? だから、一緒にお花見したら、充分に楽しめないかなぁなんて」
「! そのようなことは、決してっ!」

 思わず大きくなってしまった声に、ルアの肩がびくっと震える。それに気づいたユウセイも落ち着く様に一呼吸して、そんなことはありませんとじっと見つめ返した。


「俺は、初めての花見を、貴方と一緒に過ごせてとても嬉しく思っております」

 言ってユウセイは、頭上に広がる桜を見上げる。淡い桃色の、柔らかそうな花弁がゆらりゆらりと風に揺れている。それに目を細め、ほぅ、と息を吐く。
 故郷にも桜はあった。もし次帰郷する時咲いているなら、故郷にいる仲間達と共に花見が出来ないかと考えるだろう。
 だけどそれは、この初めての花見をルアと一緒に過ごせたからだ。どんな物事も、“初めて”というのは一回だけで、そしてその一回限りの初めてを、ルアと共に過ごせる。記憶の中にルアと自分が一緒に描かれていく。……これ程幸せなことは、中々ない。


「貴方と共に見る景色は、どれも今までで一番、一番綺麗に見えるんです」

 多くの場合、心に余裕が無ければ美しい、可愛い、綺麗だという想いは浮かびにくくなる。ユウセイにもその時期はあった。忙しくて忙しくて、周りのそんな景色に目を向ける暇など、もっと言ってしまうなら、構っている暇など無かった。時間の無駄でしかなかった。その日一日を終えて眠るまでとにかく余所見など出来ない位、忙しくて必死だった。

 でも、ルアの執事になってから、“無駄としか思えなかったものの価値”を知った。すると自分の中で確かな変化が起こった。大きく、ゆっくりと深呼吸出来るようになった。場所の記録としてしか覚えてなかった景色がどれ程美しいものだったかを知った。心の中で一つまた一つ、褪せてしまったと思っていた色が鮮やかに輝いて、広がった。


「貴方のお世話をすることが苦になることはありません。貴方と一緒でなければ、楽しいとは思えな……王子?」

 そこでふと、視線を桜からルアへと戻すと、かっくん、こっくんと首が不安定に揺れていた。どうやらもこうやらもなく、眠気で舟を漕ぎ始めている。


「王子? 眠いのですか」
「ん……ごめん。昨日から楽しみで中々眠れなかったから……ごめん、もう一回言ってくれる?」
「…………御心配されずとも、俺は、これ以上なく楽しんでおります」
「そっか……ふわぁあ」
「少し、眠られますか」
「……けど、ミールが」
「ここと厨房は少し離れておりますし、戻ってもお茶を出すには少し掛かります。……少しの間眠る位なら、平気でしょう」
「ん……そっか……じゃあ、ちょっとねるね」
「はい」
「……おかし、のこしといてね」
「はい」
「……かた、かして」
「……・ ・ ・、はい」
「……えへへ」
「王子?」


「……ゆうせい、あったかい」
「!?」

 すぅ、すう。ユウセイの肩、いや胸に体を預けてすぐに、ルアの口から穏やかな寝息が聞こえてくる。重箱に蓋をし、支えながら着ていた上着を脱いでルアに掛けるユウセイの口から、はぁ、とため息が零れる。


「……勘弁してくれ」

 あんな不意打ちは、反則だ。うっかりこう……こう、うっかり、何かしでかしそうになった。何かがナニかなんて、そんなの知らない。分からない。分からないったら分からない。分かっちゃいけない。分かっちゃったら色々終わると思うから、分かっちゃいけないのだ。


「……貴方の方が、温かいですよ」

 俺を変えた貴方は、いつも温かくて、俺が貴方に忠誠を誓った返しに、貴方から頂いたものは数えきれない。無条件かつ100%の信頼が、堪らない程嬉しく幸せで……少し、歯痒い。


「……けれど、どうか気付かないでください」

 気付かれたら……分かっちゃったら色々終わると思うから、分かっちゃいけない。分かって欲しいなんて、けして思わないから。



 ひゅぅうう

「あ」

 ルアの体を支え直してやるユウセイの上から、桜の花びらが舞い降りてくる。満開を過ぎていたのだろう。時折吹く強い風に、見事な桜吹雪となって舞い、そして散っていく。その内の数枚がユウセイの腕やルアの髪、体へと落ち、ルアの頬に乗る。その花びらを取ろうとすれば、手が起こした風で、すぅすぅと動くぷるりとした上唇に乗った。


「……ぁ」

 桜の唇。苺大福を食べたからか白い粉が付いたままの、無防備な唇。無防備に預けられた、体。心地よい体温。上昇する体温。聞こえない心音。激しくなる鼓動。頭の奥で聞こえる警鐘ごと痺れさせるような、芳しい、甘い匂い。……むくりと、何かが起き上がる感覚。明確な形ではなく衝動にも似た不埒なイメージ。見えない何かに支配されるように、ユウセイはそっと、ルアの背中へと腕を回そうと・・・、



「あら」

「!!?」

 後ろから聞こえた声に面白い位体が震え、凄まじい勢いで理性を取り戻した。反射的に振り向くと、そこには少々驚いた顔でこちらを見ているメイドの姿。
 まさか、まさかまさか……ユウセイの脳裏にその先の言葉が溢れ、背中を冷たい汗が流れる。が、メイドはまるでその想像に反するように……彼の思い描いた、一番甘いシナリオに沿った台詞で応えた。


「どうかされましたか。お化けにでも会った様な顔をして、わたしまで驚いてしまいました」
「あ、ああ、気配を感じなかったからな」
「ルア様、寝てしまわれました?」
「あ、あぁ……その、早かったな」
「そうですか? 少し遅くなったかもと焦っておりましたが」
「い、いや、そんなことはなかったぞ」
「ルア様、満腹になって寝てしまわれたのなら、このままお開きにした方がいいのでしょうか」
「いや、あんたが戻ってきたら起こしてくれと仰っていたし、お菓子を残しておいてくれとも仰った。お茶が準備出来たら起こそうと思う」
「左様ですか。ふふ、畏まりました。ではゆっくり茶葉を開くとしましょうか」

 なんだか楽しそうに笑いながらメイドは茣蓙の中へと戻り、洗ってきたポットともう一つ黒い急須を出す。そしてその急須に入れて持ってきた水でルアと自分のカップを軽く洗った後、別の湯のみを取り出しポットと共に手早くお湯を入れて温め始める。


「俺も飲むのか」
「わたしとルア様は紅茶。ユウセイには緑茶をご用意しております」
「あぁ、あんたが時々淹れてくれるあのお茶か」
「そうです」

 温める為に入れたお湯を捨て、茶葉を入れた後お湯を入れると、辺りにふわりといい香りが広がる。


「この香りは……?」
「どちらも桜の葉をブレンドしたお茶で、春季限定の茶葉なんですよ」
「ああ、だから」
「折角のお花見ですから、是非このお茶を飲みたくて取り寄せてもらったのです」

 時計を見ながら蒸らしているメイドは、ふと何かに気付いた様にユウセイを見やる。


「ところでユウセイ」
「なんだ」
「ひょっとして……その、お手洗いに行きたいのではありませんか」
「? 何故」
「あ、違うのでしたらごめんなさい。ただその、先程より姿勢が悪くなっていたので」
「姿勢……? ・・・!!!」

 何故かそこで言い淀んだメイドの言葉にユウセイはルアを支えながら曲がっていた背筋を伸ばそうとし……ざぁっと血の気が引いた。メイドに見えてるか見えてないかギリギリ……だと、信じたい。いや信じている……下半身が、頭とは裏腹に先程の興奮からまったく醒めていなかった事と、無意識に膝を少し摺り寄せてしまっていた事に漸く気付いたのだ。そしてその瞬間ユウセイの顔がぐあぁっと真っ赤になった。


「どうされましたユウセイ」
「……き、気付いていたのか」
「え? あ、やはりお手洗いに行きたかったのですね。ルア様を支えていては行けれませんもの」
「ぇ、あ、そ、そう、だな。うん。少し……行ってきてもいいか」
「勿論ですわ。生理現象の我慢は体に悪いでしょう」
「せい……あ、ああ……じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」


 どこまで気付いているのか分からないメイドに下手なことを言ってこれ以上墓穴を掘る訳にもいかないユウセイは、ルアをそっと座布団へと横たわらせ、大急ぎで城へと戻って行った。

 そして帰って来たユウセイはお菓子を食べながらルアに可愛くお説教……もとい、文句を言われることになる。


「あ! ユウセイおかえり!! もぉートイレ行きたかったんなら早く言ってよね」
「王子……も、申し訳ありません」
「はいユウセイ。こちらの緑茶をどうぞ」
「ああ、すまない」
「ユウセイ凄いよこの紅茶! このお菓子とすっごく合うんだよ!」
「左様ですか」
「ルア様にお気に召してもらえてとても光栄です。材料を取り寄せた甲斐がありました」
「取り寄せ? この辺では売ってないの?」
「ええ。でも電話一本で一時間後には届くのであまり困ることはありません」
「じゃあ、また食べたいって言ったら、作ってくれる?」
「勿論です。喜んで作らせていただきますね」
「やった! ミール大好き」
「!!」
「うふふ。ありがたき幸せ」
「あ。ユウセイも大好きだよ」
「! ぁ……ありがたき、幸せ」


 あらユウセイ。また顔が真っ赤ですけど。
 ……言うな。
 ねぇねぇユウセイこの苺大福食べてみなよ。美味しいよ!
 では、頂きます。
 ルア様。おかわりの紅茶はいかがいたしますか。
 ちょうだい!
 畏まりました。


 さぁーっと抜けていく風に花弁を躍らせる桜の下、お菓子とお茶を楽しむ三人の時は穏やかに、ゆっくりと流れていくのであった。



―END―
ユウセイとルアとメイドが三人でお花見をするお話。今回も食べ物のこと考えてるのがとっても楽しかったです。
二年前から構想は練ってたけどようやく完成したお話ですが、色々と変化が起こったお話になりました。あとメイドの名前がここで発覚しました。
ユウセイと彼女は同期ではなく先輩後輩です。彼女の方が後輩だけど年上で、でもユウセイは彼女が年上だと知りません。
ユウセイは色々な仕事をこなせる執事なのですが、メイドの仕事内容を書き始めるとあれ? っとなります。つまりそれだけ彼女はできるメイドさんなのです。彼女がもし今回の事でメイドさんは見た! 状態になっていたとしても、彼女はできるメイドさんなので覚られぬ様すぐにさっと表情を変える事が出来るのです。だからユウセイに彼女がどこまで気付いているのかを察するのはとても困難な事でしょう。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!!


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