【フルムーン・ハングリー】
 
蟹猫シリーズ ジャ→カリ





 満月の浮かぶ夜は、欲が溢れ出る。
 泥の様な闇に潜む本能という獣が、月光の下、解放される。


 放たれた獣は己が欲を満たす為に、更なる力を得る為に、自らのものと決め印を刻みし餌を玩味し貪り尽くす。それこそ、すべての妖怪に通ずる本能の理。
 ……なのに。



『遅い! 何処で道草を喰っているのだっ!!』


 アォオオオーンと人の居ないリビングにて壁へと怒号の遠吠えをぶつけているこの犬。名前はジャック。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルとジャックラッセルテリアの雑種。ただ普通の犬ではなく、人間に変身する事の出来る妖犬で、高い妖力貯蔵量を有している。

 通常、人間への変身、そしてその後変身した姿を持続する為には馬鹿に出来ない程の妖力を消費する。だが満月の夜は例外で、妖しき光を放つ満ちた月の魔力は、一夜のみ所持する妖力を倍以上へと膨れ上がらせる。


 今宵は彼が最も待ち望み、待ちわびていた満月の夜。
 そして彼の飼い主(ジャックの言葉を借りるなら、俺の飼っている人間の女)カーリーは、人間になったジャックと交尾をする事で彼に妖力の円滑な循環と、更なる妖力を齎してくれる格好の餌。……なのだが。


『えぇい、怒りで余計に腹が減ったわっ!』
 幾ら妖力が増えようとも、肝心の餌が無いのでは使い道の半分以上が無意味になる。

 しかもこの場合の餌と言うのはカーリーの存在だけではない。外仕事が多いカーリーは時間がくれば自動的に餌を出す機械で犬のジャックの食事を出しているのだが、今日の昼食を最後に、機械はまったく餌を出さなくなった。どうやらうっかり餌の補充を忘れていたらしい。水はまだあるが、水だけで腹は膨れない。



 つまり今、ジャックは性欲食欲共に飢え切った状態へと追い込まれているのだ。



「く……くぅん」
 先程まで元気に怒りを喚いていた口から、事情を知らない犬好きの方から見ればおもわず構いたくなるような弱気な声が零れる。
 しかしこの男……否、雄はその程度でへこたれるようなやわな精神はしていない。


『もう我慢ならんっ!』
 リビングでカーリーの(彼の言葉を借りるなら餌の)帰りを待つという我慢が出来なくなったジャックは、寝室へと移動し、窓の外に浮かぶ満月から降り注ぐ月光にその身を預け高まる力を解放する。視界の上に映っていたベッドがどんどん下の方に移っていったと思ったら、そこにはもう犬ではなく金髪紫目の超美青年になったジャックの姿があった。


グキュ〜ゴゴゴゴゴッ

「……っ」
 人間へと変身した事で盛大に鳴り始める腹を恥ずかしそうに抑える。細部に至るまでカッコつけられないのは、彼の長所だ。


「えぇいっ! そもそもあいつがとっとと帰って来ないのが悪いのだ!」
 ドスドスと音を立てながら、機嫌悪そうにリビングへと戻ると、冷蔵庫を開けて予備の缶詰などが無いかを確認する。以前一回だけカーリーが買ってきた缶詰ドッグフードが大層おいしかったから彼女が休みの時に毎回よこせと強請った事がある。が、犬の時に何を訴えても彼女に通じる事はなく、人間に変身した時はそれどころではないから結局諦めざるを得なかったというジャックにとってちょっぴり切ないエピソードがあった。あの時は一缶だけだったが、ひょっとしたらまだ予備があって、冷蔵庫に入れたまま忘れているのではとも考えたが、


「ちっ」
 そんな甘く淡すぎる願いは、期待する方がアホなのだとでも言われるように打ち砕かれ、舌打ちと共に冷蔵庫を閉めると今度は戸棚を開けて皿の奥へと手を伸ばす。ぐしゃっという音を立て掴み出すと、ちょっと湿気た犬用おやつが出てきた。カーリーがジャックのしつけ用にと購入したものらしい。


「まぁ、おやつでも時間稼ぎにはなるだろう」
 くっちゃくっちゃと残っていたおやつをすべて平らげた後袋をゴミ箱へと捨てて、玄関へと足を進める。どうやらカーリーを探しに行くつもりらしい。妖力によってドアの鍵を掛けた後、妖力を輪の様に広げつつ風が運んでくる匂いを探っていく。



「…………ふん」
 見つけたぞ。口元に悪い笑みを浮かべた後、トン、とマンションの廊下から夜の町へと繰り出す。ここは一階じゃないとか、誰かに見られたらとか、そんなことは妖力で気配を消し、家から家へと屋根を次々に飛んで行くジャックには気にすべき事柄ではないのである。



「……!?」
 途中、ナニカ強力な力の気配を感じた事で尻尾と耳が出ちゃってを出し立ち止まるが、


「消えた……いや、消したか」
 気配を穏やかにし溶かすようにして消した事から、どうやらこちらと争う気はないらしいということが分かったので、少々警戒しつつも、ジャックはカーリーの元へと急ぐのだった。人間に変身すると胃が大きくなるのか、おやつを食べたとはいえ依然空腹には違いないジャックには、余計な戦闘は足元をすくわれる恐れがあるからだ。誤解が無いよう言っておくが……けしてビビった訳ではない。


「ここか」
 建物の屋根を渡り辿り着いたのは、満天屋ハッピネスタウンという一軒のスーパー。いつものお散歩コースから外れている為ジャック自身は知らない事だが、ここはカーリーがよく仕事帰りに利用する店なのだ。


「……覚悟するがいい」
 周囲から自分へ向けて、小さく黄色い声が響くのなんて気にも留めず、颯爽と店内へと向かうジャックの脳内ではもれなく深夜タイムへと突入してしまうような、ストレートに言うと獣カーンとか、アオカーンとかいう単語が飛びまくっていた。店の中なのにアオカーンというのは合っているのだろうか。そもそもそんなの人としてどうなのか、なんて聞いても無駄だ。いくら人に変身しているとはいえ、ワンちゃんに罪はないのである。



 人間に変身していようが鼻の能力は犬のままなので、ずんずんと進む足に迷いなどの類は一つもない。そしてついに、ペットフードが陳列している棚の前にてしゃがみ込んでいるカーリーを見つけ出したのだった。



「見つけたぞカーリー」
「え?」
 背後からゴゴゴゴゴなんて聞こえてきそうな、霊感の強い人や空気を読める人なら思わず関わり合いになるのを避けるような、そんな噴火五秒前の火山の様なオーラを隠すことなく仁王立ちしているジャックを見て、名前を呼ばれた事で振り返ったカーリーの顔が、ビキリと凍りついた。


「な、な、な、ど、ど、ど」
「ふん……人間なら人間らしくキチンと言葉にせんか」
「ど、どうしてあんたがここに」
 じり、とジャックの足が動くと、バネが弾むように立ち上がり距離を取る。彼女が過去にジャックから受けた恥っずかし〜い想い出を考えれば、まぁ、無理はないと言える。


 だがジャックはそんな彼女の言動にはもう慣れているのか、自分の用事を簡潔に済ませようとする。


「腹が減った」
「へ?」
「いつもの機械から飯が出ない。腹が減った。餓死しそうだ。俺が死んだら飯を補充しなかった貴様のせいだ」
「え、な、何言ってんの。私が貴方にご飯を作った事なんて……え、ちょっと、待って。飯の補充って……え、ま、まさかっ」
 訳が分からなそうに話を聞いていたカーリーは、そこで先程とは全く違う感情で顔を強張らせ、ジャックへと詰め寄る。


「飯の補充とか機械とかって、ひょっとしてジャックに餌をあげるアレの事を言ってるの? 餌出てないの? ジャックお腹すかせてるの?」
「だからそう言っているだろう」
 青い顔で自分の襟を掴み問いただす彼女に、ジャックはだからとっとと食わせろ、と言葉を付け加える。大変! と慌てて餌を載せたカートを動かしレジへと急ぐ彼女に、彼はこれでやっと餌が食えると安堵した。


「しかし、世の中にはこんなに犬用の飯が、」
 餌があるのか、と続けようとしたジャックの声が、棚に積まれた一つの缶詰を見つけた事でストップする。牛肉の、缶詰ドックフード。彼が一回食べてまた食べたくて、でも食べられなかった、切ない想い出の缶詰。


「待てカーリー! これも買え!」
「え、いきなり何? 私急いでるんだから!」
 レジに並ぶよりも早くカーリーの元へと駆けよったジャックは、巨大なドライドッグフードの袋の隣に、棚にあったあの缶詰を全部入れる。


「な、何なのこの缶詰。しかも何で同じのばっかり」
「この間とても美味しかった。だからまた買え」
「あんたは食べてないでしょ! 食べたのは私の犬のジャックなんだから!」
「勘違いしてもらっては困る。お前の犬ではない。お前が俺の所有物だ。それと、そのすきやき味のは確かに美味いがたまには別の味のも食いたい」
「いきなり餌を変えたらジャックが食べなくなるかもしれないじゃない!」
「俺に好き嫌いはない!」
「だから私が言ってるのはあんたじゃなくて犬のジャックなんだから!」


 埒が明かない。


「あ、でも確かにこの缶詰は前一回だけ買ったことがあったかも」
「そうだ。そして美味かったからまた買えと言っている」
「でも、どうしてあんた、私がこの缶詰を買った事を知って」


 グゴゴゴゴッ! カーリーの言葉を遮る様に鳴り響く腹の音に、ジャックのただでさえ短い我慢の糸がバーンする。


「細かい事を一々気にするな! こうしている間にも俺の胃袋は刻々と餓死へのリミットを刻んでいるのだ!」
「はっ! そうだった。ジャックもすっごくお腹すかせてるんだった!」
 噛み合っているのかいないのかいまいちよく分からないが、とりあえずカーリーはジャックが籠に入れた缶詰を丸々購入するという太っ腹な一面を見せた。彼女のお財布が給料日前じゃなかった事を、ジャックは感謝するべきなのだと思う。



 そして無事餌を購入し、(こっそりジャックが屋根の上に乗った)車を爆走させてマンションへと戻ったカーリーは鍵を差し込むのももどかしいと言わんばかりに、乱暴にドアを開ける。



「ジャック! ジャック、ただいま! 何処にいるの? ジャック!」
「だから……俺がそうだと言っておろうが」
 姿の見えない“犬の”ジャックを捜して家中を走り回るカーリーに、開いたままとなっていたドアを閉めたジャックは先程以上に疲れた声でもう何度目になるかも分からないツッコミを入れる。


「(くそ。いくら妖力が増えようとも、腹が減っていてはどうにもならん)」
 昔は、カーリーに拾われる前は、どれほど腹が減ろうとも何とか我慢出来た。好き嫌いはないから、何を食べても平気だった。少々綺麗な格好をした、人間の女を性的に頂く事も、結構あった。それで、よかった、筈なのに。


「……何故だろうな」
「ジャック、どこジャック! あ、あんたまだいたの? あんたも一緒にジャックを探し、て」
 慌てているカーリーの言葉の語尾が、急速に力を失う。力なく、ちょっとふらついているジャックの腕の中に、捕らえられたからだ。


「な、なに? い、言っとくけど、今あんたの相手をしてる暇なんて」
「本当に……不思議だが、もう我慢出来ん」
「え? ――ぃっ!」
 抱きしめられたと思ったら、そのまま床へと押し倒される。その時彼女の掛けている分厚い眼鏡が外れ、一気に視界がぼやけてしまう。


「一度変身を解けば、再び変身するには負担が掛かる。何処まで妖力を増やせるか」
「な、何言って……んっ」
 カーリーの眼鏡が外れていなければ、空腹によって出てしまったジャックの犬耳としっぽが見えただろうか。至近距離なら、見えたかもしれない。ただ唇を重ねる程の至近距離では、彼の瞳しか見えはしない。だから彼女はまた今回も、いつまで経ってもジャックの正体に気づけない。


「(どうしてだろうな。お前が俺の妖力を増やせる希少な人間だからか)」
 コッチの餌は誰でもいい筈なのに、どうして俺は、お前以外の女を喰らおうと思わなくなったのか。


「ぁ、ゃ、やめてよ、そこ……そこ、ぉ」
 満月の光が差し込むには少し遠いフローリングの廊下には、カーリーの切なくも甘い喘ぎ声が壁へとぶつかり、ジャックの耳を熱く溶かすのだった。







それから三十分後。





「はーいジャック。遅くなっちゃってごめんね」
 乱れた服を整えたカーリーの差し出したドッグフード入りの皿に、無言で頭を突っ込む犬のジャックの姿があった。余程お腹をすかせていたというのがとてもよく分かる食べっぷりに、餌をやる機械の電池を取り換えていた彼女の胸がきゅんと痛む。


「ジャック。いっぱい食べてね」
 ごめんね。いっぱい食べて、いいからね。ちょっとしぼんだ声に、ジャックは皿に突っ込んでいた顔を出して見上げる。彼女の沈んでいる顔は見ていていい気分にならなくて、彼は彼女の膝へとすり寄る。


「わん(しょげた顔をするな)」
「慰めてくれるの?」
「くぅん(そんな顔で見られると飯が不味くなる)」
「ジャック〜大好き〜」
「わぉ〜ん(えぇい引っ付くな襲うぞっ!)」
 感極まったカーリーの胸に顔がぱっふんと埋まったジャックは必死に離れようと顔を動かしている。とても羨ましい光景だ。


「それにしても、あいつ何処に行っちゃったのかしら。いつもなら最後までしてからヤり逃げするのに」
「……」
 ジャックを抱きしめながら不思議そうに呟く彼女に、胸の中のジャックは何も言えない。彼女を一回達しさせた際の愛液を呑み妖力は前より増えたものの、あまりの空腹にそこで意識が力尽き犬の姿へと戻ってしまったのだ。カーリーは達したものの意識は飛ばさなかったので、自分の股に乗る様にして気絶しているジャックに驚き、慌ててシャワーを浴び餌の準備をした。だから襲われてから三十分しか経ってないのに、彼は餌にありつけたのである。


「いや、別にあいつに最後までヤって欲しかった訳じゃないんだけどね!?」
「……(ふん)」
「あ。そう言えば、あいつが買えって言った缶詰」
「! あぉ〜ん!」
「え、ジャック?」
 カーリーの胸から降りたジャックは、餌の入った皿の周りをぐるぐると回り始める。犬としてのとても一生懸命なアピールである。カーリーもそれが分かったのか、ちょっと待っててね、とレジ袋から缶詰を一つ取り出し、餌の入った皿へと投入する。


「ガフガフ」
「うわ凄い食い付き! そんなに食べたかったんだ」
「わん!」
 尻尾をぱたぱたと振りながら満足そうに食べ終わったジャックに、カーリーはよしよしと頭を撫で、これからはまた買ってきてあげるねと約束する。


「それにしても本当、あいつはなんでジャックがこれを欲しがってるって知ってたのかしら」
 それは何度も言うように、人間の時のジャックの言葉をきちんと受け止めれば、とっくに出ている答えなのだが。


「まぁ、分かんない事を考えても仕方ないか」
「……くぅん」
 お前はもっと考えろ。餌が入っていた皿を舐めながら、ジャックはやれやれと溜め息を吐いた。





 満月の浮かぶ夜は、欲が溢れ出る。

 泥の様な闇に潜む本能という獣が、月光の下、解放される。

 しかし、どんな時でも、人間だろうが妖怪だろうが、腹が減ってはどうにもならない。



「襲われるのは嫌だけど一応貴方の恩人な訳だし、次に会った時は今日の事ちゃんとお礼を言わないとね」
「わん、わん」


 礼をする気持ちがあるならこれからはとっとと帰って来る事だ。
 カーリーの言葉に内心で呟き返したジャックは、ふぁふ、と満足気に欠伸をしたのであった。


―END―
結構前に行われた(たぶん今から約二年前)SCCにて、えななさんとの合同誌に寄稿させていただいたジャ→カリ小説。
遊龍亞版の『ぬくぬくが好き』と同じ日に起こった出来事なので、この話の後にそちらを読めば「あぁ〜ここで」とまた楽しく読める様になってる、と思います。
一応文中で表現はしてるのですが後書きで書けなかったのでこちらに補足を書くと、ジャックの餌をあげる機械は餌が切れたからではなく、電池が切れたので餌が出てこなくなりました。「あれ? なら人間になったジャックが機械の蓋を開けてれば餌が食べれたんじゃ?」と思っても、どうか気にしないであげてください。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!!


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